第四帖 第3通 当時世上の御文
それ、当時世上の体たらく、いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。しかるあいだ、諸国往来の通路にいたるまでも、たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても、千万迷惑のおりふしなり。これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがうべきことなり。しかるにいまの世も末法濁乱とはいいながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は、いまの時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住のともがらにおいては、一念の信心をとりて、法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもって、たからの山にいりて手をむなしくしてかえらんににたるものか。よくよくこころをしずめてこれを案ずべし。しかれば、諸仏の本願をくわしくたずぬるに、五障の女人、五逆の悪人をば、すくいたまうことかなわずときこえたり。これにつけても、阿弥陀如来こそ、ひとり無上殊勝の願をおこして、悪逆の凡夫、五障の女質をば、われたすくべきという大願をばおこしたまいけり。ありがたしというもなおおろかなり。これによりて、むかし、釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典をとかれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがわしめたまいしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して、王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。このゆえに法華と念仏と同時の教といえることは、このいわれなり。これすなわち末代の五逆・女人に、安養の往生をねがわしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりと、しらせたまえりとしるべし。あなかしこ、あなかしこ。
文明九歳九月二十七日記之
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