第四帖 第2通 定命の御文
それ、人間の寿命をかぞうれば、いまのときの定命は五十六歳なり。しかるに当時において、年五十六までいきのびたらんひとは、まことにもっていかめしきことなるべし。これによりて、予すでに頽齢六十三歳にせまれり。勘篇すれば、年ははや七年までいきのびぬ。これにつけても前業の所感なれば、いかなる病患をうけてか死の縁にのぞまんとおぼつかなし。これさらにはからざる次第なり。ことにもって当時の体たらくをみおよぶに、定相なき時分なれば、人間のかなしさは、おもうようにもなし。あわれ、死なばやと、おもわば、やがて死なれなん世にてもあらば、などかいままでこの世にすみはんべりなん。ただいそぎてもうまれたきは極楽浄土、ねごうてもねがいえんものは無漏の仏体なり。しかれば、一念帰命の他力安心を、仏智より獲得せしめん身のうえにおいては、畢命已期まで、仏恩報尽のために称名をつとめんにいたりては、あながちになにの不足ありてか、先生よりさだまれるところの死期をいそがんも、かえりておろかにまどいぬるかともおもいはんべるなり。このゆえに、愚老が身上にあててかくのごとくおもえり。たれのひとびとも、この心中に住すべし。ことにもって、この世界のならいは、老少不定にして、電光朝露のあだなる身なれば、いまも無常のかぜきたらんことをば、しらぬ体にてすぎゆきて、後生をばかつてねがわず、ただ今生をばいつまでもいきのびんずるようにこそ、おもいはんべれ。あさましというもなおおろかなり。いそぎ今日より弥陀如来の他力本願をたのみ、一向に無量寿仏に帰命して、真実報土の往生をねがい、称名念仏せしむべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
干時文明九年九月十七日、俄思出之間、辰剋已前早々書記之訖
信証院 六十三歳
かきおくも ふでにまかする ふみなれば ことばのすえぞ おかしかりける
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