第四帖 第4通 三首詠歌の御文

それ、秋もさり春もさりて、年月をおくること、昨日もすぎ今日もすぐ。いつのまにかは年老のつもるらんともおぼえず、しらざりき。しかるにそのうちには、さりとも、あるいは花鳥風月のあそびにもまじわりつらん。また歓楽苦痛の悲喜にもあいはんべりつらんなれども、いまにそれともおもいいだすこととては、ひとつもなし。ただいたずらにあかし、いたずらにくらして、老いのしらがとなりはてぬる身のありさまこそかなしけれ。されども今日までは無常のはげしきかぜにもさそわれずして、わが身ありがおの体を、つらつら案ずるに、ただゆめのごとし、まぼろしのごとし。いまにおいては、生死出離の一道ならでは、ねがうべきかたとてはひとつもなく、またふたつもなし。これによりて、ここに未来悪世のわれらごときの衆生を、たやすくたすけたまう阿弥陀如来の本願のましますときけば、まことにたのもしく、ありがたくもおもいはんべるなり。この本願を、ただ一念無疑に、至心帰命したてまつれば、わずらいもなく、そのとき臨終せば往生治定すべし。もしそのいのちのびなば、一期のあいだは仏恩報謝のために念仏して、畢命を期とすべし。これすなわち平生業成のこころなるべしと、たしかに聴聞せしむるあいだ、その決定の信心のとおり、いまに耳のそこに退転せしむることなし。ありがたしというもなおおろかなるものなり。されば、弥陀如来他力本願のとうとさ、ありがたさのあまり、かくのごとくくちにうかむにまかせて、このこころを詠歌にいわく、

  ひとたびも ほとけをたのむ こころこそ まことののりに かなうみちなれ

  つみふかく 如来をたのむ 身になれば のりのちからに 西へこそゆけ

  法をきく みちにこころの さだまれば 南無阿弥陀仏と となえこそすれ

と、わが身ながらも本願の一法の殊勝なるあまり、かくもうしはんべりぬ。この三首の歌のこころは、はじめは、一念帰命の信心決定のすがたをよみはんべりぬ。のちの歌は入正定聚の益、必至滅度のこころをよみはんべりぬ。つぎのこころは、慶喜金剛の信心のうえには、知恩報徳のこころをよみはんべりしなり。されば、他力の信心発得せしむるうえなれば、せめては、かようにくちずさみても、仏恩報尽のつとめにもやなりぬべきともおもい、またきくひとも宿縁あらば、などやおなじこころにならざらんとおもいはんべりしなり。しかるに、予すでに七旬のよわいにおよび、ことに愚闇無才の身として、片腹いたくも、かくのごとく、しらぬえせ法門をもうすこと、かつは斟酌をもかえりみず、ただ本願一すじの、とうとさばかりのあまり、卑劣のこのことのはを筆にまかせてかきしるしおわりぬ。のちにみん人、そしりをなさざれ。これまことに讃仏乗の縁、転法輪の因ともなりはんべりぬべし。あいかまえて偏執をなすことゆめゆめなかれ。あなかしこ、あなかしこ。

 干時文明年中 丁酉 暮冬中旬之比 於爐辺 暫時書記之者也 云々

 右この書は、当所はりの木原辺より、九間在家へ、仏照寺、所用ありて出行のとき、路次にてこの書をひろいて、当坊へもちきたれり。

   文明九年十二月二日

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