第三帖 第9通 御命日の御文

そもそも、今日は鸞聖人の御明日として、かならず報恩謝徳のこころざしをはこばざる人これすくなし。しかれども、かの諸人のうえにおいて、あいこころうべきおもむきは、もし本願他力の真実信心を獲得せざらん未安心のともがらは、今日にかぎりてあながちに出仕をいたし、この講中の座敷をふさぐをもって真宗の肝要とばかりおもわんひとは、いかでかわが聖人の御意にはあいかないがたし。しかりといえども、わが在所にありて、報謝のいとなみをもはこばざらんひとは、不請にも出仕をいたしてもよろしかるべきか。されば、毎月二十八日ごとにかならず出仕をいたさんとおもわんともがらにおいては、あいかまえて、日ごろの信心のとおり決定せざらん未安心のひとも、すみやかに本願真実の他力信心をとりて、わが身の今度の報土往生を決定せしめんこそ、まことに聖人報恩謝徳の懇志に、あいかなうべけれ。また自身の極楽往生の一途も、治定しおわりぬべき道理なり。これすなわちまことに「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」(往生礼讃)という釈文のこころにも符号せるものなり。それ聖人御入滅は、すでに一百余歳を経といえども、かたじけなくも目前において、真影を拝したてまつる。また徳音は、はるかに無常のかぜにへだつといえども、まのあたり実語を相承血脈して、あきらかに耳のそこにのこして、一流の他力真実の信心いまにたえせざるものなり。これによりて、いまこの時節にいたりて、本願真実の信心を獲得せしむるひとなくは、まことに宿善のもよおしにあずからぬ身とおもうべし。もし宿善開発の機にてもわれらなくは、むなしく今度の往生は不定なるべきこと、なげきてもなおかなしむべきは、ただこの一事なり。しかるにいま、本願の一道にあいがたくして、まれに無上の本願にあうことをえたり。まことによろこびのなかのよろこび、なにごとかこれにしかん。とうとむべし、信ずべし。これによりて、年月日ごろ、わがこころのわろき迷心をひるがえして、たちまちに本願一実の他力信心にもとづかんひとは、真実に聖人の御意にあいかなうべし。これしかしながら、今日聖人の報恩謝徳の御こころざしにもあいそなわりつべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

   文明七年五月二十八日書之

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