第三帖 第10通 神明六ヶ条の御文

そもそも当流門徒中において、この六か条の篇目のむねをよく存知して、仏法を内心にふかく信じて、外相にそのいろをみせぬようにふるまうべし。しかれば、このごろ当流念仏者において、わざと一流のすがたを他宗に対してこれをあらわすこと、もってのほかのあやまりなり。所詮向後この題目の次第をまもりて、仏法をば修行すべし。もしこのむねをそむかんともがらは、ながく門徒中の一列たるべからざるものなり。 

 一 神社をかろしむることあるべからず。

 一 諸仏・菩薩ならびに諸堂をかろしむべからず。

 一 諸宗・諸法を誹謗すべからず。

 一 守護・地頭を疎略にすべからず。

 一 国の仏法の次第、非義たるあいだ、正義におもむくべき事。

 一 当流にたつるところの他力信心をば、内心にふかく決定すべし。

 一つには、一切の神明ともうすは、本地は仏菩薩の変化にてましませども、この界の衆生をみるに、仏菩薩にはすこしちかづきにくくおもうあいだ、神明の方便にかりに神とあらわれて、衆生に縁をむすびて、そのちからをもってたよりとして、ついに仏法にすすめいれんがためなり。これすなわち、「和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のおわり」(摩訶止観)といえるはこのこころなり。さればいまの世の衆生、仏法を信じ、念仏をももうさんひとをば、神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆえに、弥陀一仏の悲願に帰すれば、とりわけ神明をあがめず信ぜねども、そのうちにおなじく信ずるこころはこもれるゆえなり。

 二つには、諸仏・菩薩ともうすは、神明の本地なれば、いまのときの衆生は、阿弥陀如来を信じ念仏もうせば、一切の諸仏・菩薩は、わが本師阿弥陀如来を信ずるに、そのいわれあるによりて、わが本懐とおぼしめすがゆえに、別して諸仏をとりわき信ぜねども、阿弥陀一仏を信じたてまつるうちに、一切の諸仏も菩薩もみなことごとくこもれるがゆえに、ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、一切の諸仏の智慧も功徳も、弥陀一体に帰せずということなきいわれなればなりとしるべし。

 三つには、諸宗・諸法を誹謗することおおきなるあやまりなり。そのいわれすでに浄土の三部経にみえたり。また諸宗の学者も、念仏者をばあながちに誹謗すべからず。自宗他宗ともにそのとがのがれがたきこと、道理必然せり。

 四つには、守護・地頭においては、かぎりある年貢所当をねんごろに沙汰し、そのほか仁義をもって本とすべし。

 五つには、国の仏法の次第、当流の正義にあらざるあいだ、かつは邪見にみえたり。所詮自今已後においては、当流真実の正義をききて、日ごろの悪心をひるがえして、善心におもむくべきものなり。

 六つには、当流真実の念仏者というは、開山のさだめおきたまえる正義をよく存知して、造悪不善の身ながら極楽の往生をとぐるをもって、宗の本意とすべし。それ、一流の安心の正義のおもむきというは、なにのようもなく、阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、われはあさましき悪業煩悩の身なれども、かかるいたずらものを本とたすけたまえる、弥陀願力の強縁なりと、不可思議におもいたてまつりて、一念も疑心なく、おもうこころだにも堅固なれば、かならず弥陀は無碍の光明をはなちて、その身を摂取したまうなり。かように信心決定したらんひとは、十人は十人ながら、みなことごとく報土に往生すべし。このこころすなわち他力の信心を決定したるひとなりというべし。このうえになおこころうべきようは、まことにありがたき阿弥陀如来の広大の御恩なりとおもいて、その仏恩報謝のためには、ねてもおきても、ただ南無阿弥陀仏とばかりとなうべきなり。さればこのほかには、また後生のためとては、なにの不足ありてか、相伝もなき、しらぬえせ法門をいいて、ひとをもまどわし、あまっさえ法流をもけがさんこと、まことにあさましき次第にあらずや。よくよくおもいはからうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

   文明七年七月十五日

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