第三帖 第8通 当国他国十劫の御文
そもそも、此の比、当国他国のあいだにおいて、当流安心のおもむき、事の外、相違して、みな人ごとに、われはよくこころえたりとおもいて、さらに法義にそむくとおりをも、あながちにひとにあいたずねて、真実の信心をとらんとおもうひとすくなし。これまことにあさましき執心なり。すみやかに、この心を改悔懺悔して、当流真実の信心に住して、今度の報土往生を決定せずは、まことに、宝のやまにいりて手をむなしくしてかえらんにことならんものか。このゆえに、その信心の相違したることばにいわく、「それ、弥陀如来は、すでに十劫正覚のはじめより、われらが往生をさだめたまえることを、いまにわすれず、うたがわざるが、すなわち信心なり」とばかりこころえて、弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくは、報土往生すべからず。さればそばさまなるわろきこころえなり。これによりて、当流安心のそのすがたをあらわさば、すなわち南無阿弥陀仏の体をよくこころうるをもって、他力信心をえたるとはいうなり。されば「南無阿弥陀仏」の六字を、善導釈していわく、「「南無」というは帰命、またこれ発願回向の義なり」(玄義分)といえり。そのこころいかんぞなれば、阿弥陀如来の因中において、われら凡夫の往生の行をさだめたまうとき、凡夫のなすところの回向は自力なるがゆえに、成就しがたきによりて、阿弥陀如来の、凡夫のために御身労ありて、この回向をわれらにあたえんがために、回向成就したまいて、一念南無と帰命するところにて、この回向をわれら凡夫にあたえましますなり。かるがゆえに、凡夫のかたよりなさぬ回向なるがゆえに、これをもって如来の回向をば、行者のかたよりは不回向とはもうすなり。このいわれあるがゆえに、「南無」の二字は帰命のこころなり。また発願回向のこころなり。このいわれなるがゆえに、南無と帰命する衆生を、かならず摂取してすてたまわざるがゆえに、南無阿弥陀仏とはもうすなり。これすなわち一念帰命の他力信心を獲得する、平生業成の念仏行者といえるはこのことなりとしるべし。かくのごとくこころえたらんひとびとは、いよいよ弥陀如来の御恩徳の深遠なることを信知して、行住座臥に称名念仏すべし。これすなわち「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」(正信偈)といえる文のこころなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明七 二月二十五日
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