第四帖 第12通 毎月両度の御文
そもそも毎月両度の寄合の由来は、なにのためぞというに、さらに他のことにあらず。自身の往生極楽の、信心獲得のためなるがゆえなり。しかれば、往古よりいまにいたるまでも、毎月の寄合ということは、いずくにもこれありといえども、さらに信心の沙汰とては、かつてもってこれなし。ことに近年は、いずくにも寄合のときは、ただ酒飯茶なんどばかりにて、みなみな退散せり。これは仏法の本意には、しかるべからざる次第なり。いかにも不信の面々は、一段の不審をもたてて、信心の有無を沙汰すべきところに、なにの所詮もなく退散せしむる条、しかるべからずおぼえはんべり。よくよく思案をめぐらすべきことなり。所詮自今已後においては、不信の面々は、あいたがいに信心の讃嘆あるべきこと肝要なり。
それ当流の安心のおもむきというは、あながちにわが身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまえと、ふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまうべきこと、さらにうたがいあるべからず。かくのごとくよくこころえたる人は、まことに百即百生なるべきなり。このうえには、毎月の寄合をいたしても、報恩謝徳のためとこころえなば、これこそ真実の信心を具足せしめたる行者ともなづくべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
明応七年二月二十五日書之
毎月両度講衆中へ
八十四歳
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