第四帖 第11通 機法一体の御文
南無阿弥陀仏と申すは、いかなる心にて候うや。しかれば、何と弥陀をたのみて、報土往生をばとぐべく候うやらん。これを心得べきようは、まず「南無阿弥陀仏」の六字のすがたをよくよく心得わけて、弥陀をばたのむべし。そもそも、南無阿弥陀仏の体は、すなわちわれら衆生の、後生たすけたまえとたのみもうすこころなり。すなわちたのむ衆生を、阿弥陀如来のよくしろしめして、すでに無上大利の功徳をあたえましますなり。これを衆生に回向したまえるといえるはこのこころなり。されば弥陀をたのむ機を阿弥陀仏のたすけたまう法なるがゆえに、これを機法一体の南無阿弥陀仏といえるはこのこころなり。これすなわちわれらが往生のさだまりたる、他力の信心なりとは、こころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
明応六年五月二十五日書之訖 八十三歳
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