第二帖 第11通 五重義の御文

それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。これおおきにあさましき次第なり。そのゆえは、まず当流には他力の信心をもって凡夫の往生をさきとせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて、沙汰せずして、そのすすむることばにいわく、「十劫正覚のはじめより、われらが往生を、弥陀如来のさだめましましたまえることを、わすれぬがすなわち信心のすがたなり。」といえり。これさらに弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。されば、いかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生をさだめたまえることをしりたりというとも、われらが往生すべき他力の信心のいわれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。またあるひとのことばにいわく、「たとい弥陀に帰命すというとも、善知識なくは、いたずらごとなり。このゆえに、われらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と云々 これも、うつくしく当流の信心をえざるひとなりときこえたり。そもそも善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。一には宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義成就せずは、往生はかなうべからずとみえたり。されば善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよといえるつかいなり。宿善開発して、善知識にあわずは往生はかなうべからざるなり。しかれども、帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おおきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

    文明六年五月二十日

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