第二帖 第10通 仏心凡心一体の御文

それ、当流親鸞聖人のすすめましますところの一義のこころというは、まず他力の信心をもって肝要とせられたり。この他力の信心ということをくわしくしらずは、今度の一大事の往生極楽はまことにもってかなうべからずと、経釈ともにあきらかにみえたり。されば、その他力の信心のすがたを存知して、真実報土の往生をとげんとおもうについても、いかようにこころをももち、またいかように機をももちて、かの極楽の往生をばとぐべきやらん。そのむねをくわしくしりはんべらず。ねんごろにおしえたまうべし。それを聴聞していよいよ堅固の信心をとらんとおもうなり。

  こたえていわく、そもそも、当流の他力信心のおもむきともうすは、あながちにわが身のつみのふかきにもこころをかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人までも、みなたすけたまえる不思議の誓願力ぞとふかく信じて、さらに一念も本願をうたがうこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを、如来のよき御こころとおなじものになしたまうなり。このいわれをもって仏心と凡心と一体なるといえるはこのこころなり。これによりて、弥陀如来の遍照の光明のなかにおさめとられまいらせて、一期のあいだはこの光明のうちにすむ身なりとおもうべし。さていのちもつきぬれば、すみやかに真実の報土へおくりたまうなり。しかれば、このありがたさとうとさの、弥陀大悲の御恩をば、いかがして報ずべきぞなれば、昼夜朝暮には、ただ称名念仏ばかりをとなえて、かの弥陀如来の御恩を報じたてまつるべきものなり。このこころ、すなわち当流にたつるところの、一念発起平生業成といえる義、これなりとこころうべし。さればかように弥陀を一心にたのみたてまつるも、なにの苦労もいらず。また信心をとるというもやすければ、仏になり極楽に往生することもなおやすし。あら、とうとの弥陀の本願や。あら、とうとの他力の信心や。さらに往生においてそのうたがいなし。しかるにこのうえにおいて、なお身のふるまいについて、このむねをよくこころうべきみちあり。それ、一切の神も仏ともうすも、いまこのうるところの他力の信心ひとつをとらしめんがための方便に、もろもろの神、もろもろのほとけとあらわれたまういわれなればなり。しかれば一切の仏菩薩も、もとより弥陀如来の分身なれば、みなことごとく、一念南無阿弥陀仏と帰命したてまつるうちに、みなこもれるがゆえに、おろかにおもうべからざるものなり。またこのほかになおこころうべきむねあり。それ、国にあらば守護方、ところにあらば地頭方において、われは仏法をあがめ信心をえたる身なりといいて、疎略の義、ゆめゆめあるべからず。いよいよ公事をもっぱらにすべきものなり。かくのごとくこころえたるひとをさして、信心発得して後生をねがう念仏行者のふるまいの本とぞいうべし。これすなわち仏法・王法をむねとまもれるひととなづくべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

    文明六年五月十三日書之

0コメント

  • 1000 / 1000