第一帖 第15通 宗名の御文

問うていわく、「当流を、みな、世間に流布して、一向宗となづけ候うは、いかようなる子細にて候うやらん、不審におぼえ候う。」

 答えていわく、「あながちに、わが流を一向宗となのることは、別して祖師もさだめられず。おおよそ阿弥陀仏を一向にたのむによりて、みな人のもうしなすゆえなり。しかりといえども、経文に「一向専念無量寿仏」(大経)とときたもうゆえに、一向に無量寿仏を念ぜよといえるこころなるときは、一向宗ともうしたるも子細なし。さりながら開山は、この宗をば浄土真宗とこそさだめたまえり。されば一向宗という名言は、さらに本宗よりもうさぬなりとしるべし。されば、自余の浄土宗は、もろもろの雑行をゆるす。わが聖人は雑行をえらびたもう。このゆえに真実報土の往生をとぐるなり。このいわれあるがゆえに、別して真の字をいれたもうなり。」

 またのたまわく、「当宗をすでに浄土真宗となづけられ候うことは、分明にきこえぬ。しかるにこの宗体にて、在家のつみふかき悪逆の機なりというとも、弥陀の願力にすがりて、たやすく極楽に往生すべきよう、くわしくうけたまわりはんべらんとおもうなり。」 答えていわく、「当流のおもむきは、信心決定しぬればかならず真実報土の往生をとぐべきなり。さればその信心というはいかようなることぞといえば、なにのわずらいもなく、弥陀如来を一心にたのみたてまつりて、その余の仏菩薩等にもこころをかけずして、一向にふたごころなく弥陀を信ずるばかりなり。これをもって信心決定とはもうすものなり。信心といえる二字をばまことのこころとよめるなり。まことのこころというは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆえに、まことのこころとはもうすなり。また名号をもってなにのこころえもなくして、ただとなえてはたすからざるなり。されば、『経』(大経)には、「聞其名号 信心歓喜」ととけり。「その名号をきく」といえるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を、無名無実にきくにあらず。善知識にあいて、そのおしえをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまうという道理なり。これを『経』に「信心歓喜」ととかれたり。これによりて、南無阿弥陀仏の体はわれらをたすけたまえるすがたぞと、こころうべきなり。かようにこころえてのちは、行住座臥に口にとなうる称名をば、ただ弥陀如来のたすけまします御恩を、報じたてまつる念仏ぞとこころうべし。これをもって、信心決定して極楽に往生する、他力の念仏の行者とはもうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

   文明第五 九月下旬第二日至干巳尅

   加州山中湯治之内書集之訖


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