第一帖 第12通 年来超勝寺の御文

そもそも、年来超勝寺の門徒において、仏法の次第もってのほか相違せり。そのいわれは、まず座衆とてこれあり。いかにもその座上にありて、さかずきなんどまでもひとよりさきにのみ、座中のひとにも、 またそのほかたれたれにも、いみじくおもわれんずるが、まことに仏法の肝要たるように、心中にこころえおきたり。これさらに往生極楽のためにあらず。ただ世間の名聞ににたり。しかるに当流において、毎月の会合の由来はなにの用ぞなれば、在家無智の身をもって、いたずらにくらし、いたずらにあかして、一期はむなしくすぎて、ついに三塗にしずまん身が、一月に一度なりとも、せめて念仏修行の人数ばかり道場にあつまりて、わが信心は、ひとの信心は、いかがあるらんという、信心沙汰をすべき用の会合なるを、ちかごろは、その信心ということは、かつて是非の沙汰におよばざるあいだ、言語道断あさましき次第なり。所詮自今已後は、かたく会合の座中において信心の沙汰をすべきものなり。これ真実の往生極楽をとぐべきいわれなるがゆえなり。あなかしこ、あなかしこ。

   文明五年九月下旬

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