第一帖 第4通 自問自答の御文
「そもそも、親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして、来迎をも執せられそうらわぬよし、うけたまわりおよびそうろうは、いかがはんべるべきや。その平生業成ともうすことも、不来迎なんどの義をも、さらに存知せず。くわしく聴聞つかまつりたく候う。」 答えていわく、「まことに、この不審、もっとももって、一流の肝要とおぼえそうろう。おおよそ当家には、「一念発起 平生業成」と談じて、平生に、弥陀如来の本願の、われらをたすけたまうことわりをききひらくことは、宿善の開発によるがゆえなりとこころえてのちは、わがちからにてはなかりけり、仏智他力の御さずけによりて、本願の由来を存知するものなりとこころうるが、すなわち平生業成の義なり。されば、平生業成というは、いまのことわりをききひらきて、往生治定とおもいさだむるくらいを、「一念発起 住正定聚」とも「平生業成」とも「即得往生住不退転」ともいうなり。」
問うていわく、「一念往生発起の義くわしくこころえられたり。しかれども、不来迎の義いまだ分別せずそうろう。ねんごろにしめしうけたまわるべく候う。」
答えていわく、「不来迎のことも、「一念発起住正定聚」と沙汰せられそうろうときは、さらに来迎を期しそうろうべきこともなきなり。そのゆえは、来迎を期するなんどもうすことは、諸行の機にとりてのことなり。
真実信心の行者は、一念発起するところにて、やがて摂取不捨の光益にあずかるときは、来迎までもなきなりとしらるるなり。されば、聖人のおおせには「来迎は諸行往生にあり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚に住す。正定聚に住するがゆえに、かならず滅度にいたる。かるがゆえに臨終まつことなし。来迎たのむことなし」(末燈鈔意)といえり。この御ことばをもってこころうべきものなり。」
問うていわく、「正定聚と滅度とは、一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。」
答えていわく、「一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに、滅度は浄土にてうべき益にてあるなりとこころうべきなり。されば、二益なりとおもうべきものなり。」
問うていわく、「かくのごとくこころえそうろうときは、往生は治定と存じおき候うに、なにとて、わずらわしく、信心を具すべきなんど沙汰そうろうは、いかがこころえはんべるべきや。これもうけたまわりたく候う。」
答えていわく、「まことにもって、このたずねのむね肝要なり。されば、いまのごとくにこころえそうろうすがたこそ、すなわち信心決定のこころにて候うなり。」
問うていわく、「信心決定するすがた、すなわち平生業成と不来迎と正定聚との道理にて候うよし、分明に聴聞つかまつり候いおわりぬ。しかりといえども、信心治定してののちには、自身の往生極楽のためとこころえて念仏もうしそうろうべきか、また仏恩報謝のためとこころうべきか、いまだそのこころをえずそうろう。」
答えていわく、「この不審また肝要とこそおぼえそうらえ。そのゆえは、一念の信心発得已後の念仏をば、自身往生の業とはおもうべからず。ただひとえに仏恩報謝のためとこころえらるべきものなり。されば、善導和尚の「上尽一形下至一念」(散善義意)と釈せり。「下至一念」というは、信心決定のすがたなり。「上尽一形」は、仏恩報尽の念仏なりときこえたり。これをもって、よくよくこころえらるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明四年十一月二十七日
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