第五帖 第9通 一切聖教の御文
当流の安心の一義というは、ただ「南無阿弥陀仏」の六字のこころなり。たとえば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまえるこころなるがゆえに、「南無」の二字は帰命のこころなり。帰命というは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまえと、一向にたのみたてまつるこころなるべし。このゆえに、衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。これによりて、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆえに、「南無阿弥陀仏」の六字のすがたは、すなわちわれら一切衆生の、平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるというも、これ、しかしながら、「南無阿弥陀仏」の六字のこころなり。このゆえに一切の聖教というも、ただ「南無阿弥陀仏」の六字を、信ぜしめんがためなりというこころなりと、おもうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
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