第三帖 第5通 諸仏悲願の御文
そもそも、諸仏の悲願に弥陀の本願のすぐれましましたる、そのいわれをくわしくたずぬるに、すでに十方の諸仏ともうすは、いたりてつみふかき衆生と、五障・三従の女人をば、たすけたまわざるなり。このゆえに、諸仏の願に阿弥陀仏の本願はすぐれたりともうすなり。さて弥陀如来の超世の大願は、いかなる機の衆生をすくいましますぞともうせば、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人にいたるまでも、みなことごとく、もらさずたすけたまえる大願なり。されば一心一向にわれをたのまん衆生をば、かならず十人あらば十人ながら、極楽に引接せんとのたまえる、他力の大誓願力なり。これによりて、かの阿弥陀仏の本願をば、われらごときのあさましき凡夫は、なにとようにたのみ、なにとように機をもちて、かの弥陀をばたのみまいらすべきぞや。そのいわれをくわしくしめしたまうべし。そのおしえのごとく信心をとりて、弥陀をも信じ、極楽をもねがい、念仏をももうすべきなり。
こたえていわく、まず、世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏ともうすは、ただなにの分別もなく、南無阿弥陀仏とばかりとなうれば、みなたすかるべきようにおもえり。それはおおきにおぼつかなきことなり。京、田舎のあいだにおいて、浄土宗の流義まちまちにわかれたり。しかれども、それを是非するにはあらず。ただわが開山の一流相伝のおもむきをもうしひらくべし。それ、解脱の耳をすまして、渇仰のこうべをうなだれて、これをねんごろにききて、信心歓喜のおもいをなすべし。それ在家止住のやから、一生造悪のものも、ただわが身のつみのふかきには目をかけずして、それ弥陀如来の本願ともうすは、かかるあさましき機を本とすくいまします、不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心ということをひとつこころうべし。さて他力の信心という体は、いかなるこころぞというに、この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまえるいわれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらわしましましたる御すがたぞと、くわしくこころえわけたるをもって他力の信心をえたる人とはいうなり。この「南無」という二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまえとおもいて、余念なきこころを「帰命」とはいうなり。つぎに「阿弥陀仏」という四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくいたまうこころなり。このこころをすなわち摂取不捨とはもうすなり。摂取不捨というは、念仏の行者を弥陀如来の光明のなかにおさめとりてすてたまわずといえるこころなり。されば、この南無阿弥陀仏の体は、われらを阿弥陀仏のたすけたまえる支証のために、御名を、この南無阿弥陀仏の六字にあらわしたまえるなりときこえたり。かくのごとくこころえわけぬれば、われらが極楽の往生は治定なり。あら、ありがたや、とうとやとおもいて、このうえには、はやひとたび弥陀如来にたすけられまいらせつるのちなれば、御たすけありつる御うれしさの念仏なれば、この念仏をば、仏恩報謝の称名ともいい、また信のうえの称名とももうしはんべるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明六年九月六日書之
0コメント