第三帖 第3通 性光門徒の御文
此の方河尻性光門徒の面々において、仏法の信心のこころえはいかようなるらん。まことにもってこころもとなし。しかりといえども、いま当流一義のこころをくわしく沙汰すべし。おのおの耳をそばだててこれをききて、このおもむきをもって本とおもいて、今度の極楽の往生を治定すべきものなり。 それ、弥陀如来の念仏往生の本願ともうすは、いかようなることぞというに、在家無智のものも、また十悪五逆のやからにいたるまでも、なにのようもなく、他力の信心ということをひとつ決定すれば、みなことごとく極楽に往生するなり。さればその信心をとるというは、いかようなるむつかしきことぞというに、なにのわずらいもなく、ただひとすじに、阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつりて、余へこころをちらさざらんひとは、たとえば十人あらば十人ながら、みなほとけになるべし。このこころひとつをたもたんは、やすきことなり。ただこえにいだして念仏ばかりをとなうるひとは、おおようなり。それは極楽には往生せず。この念仏のいわれをよくしりたるひとこそ、ほとけにはなるべけれ。なにのようもなく、弥陀をよく信ずるこころだにもひとつにさだまれば、やすく浄土へはまいるべきなり。このほかには、わずらわしき秘事といいて、ほとけをもおがまぬものはいたずらものなりとおもうべし。これによりて、阿弥陀如来の他力本願ともうすは、すでに末代いまのときの、つみふかき機を本としてすくいたまうがゆえに、在家止住のわれらごときのためには相応したる他力の本願なり。あら、ありがたの弥陀如来の誓願や。あら、ありがたの釈迦如来の金言や。あおぐべし、信ずべし。しかれば、いうところのごとくこころえたらんひとびとは、これまことに当流の信心を決定したる、念仏行者のすがたなるべし。さて、このうえには、一期のあいだもうす念仏のこころは、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまえるところの、雨山の御恩を報じたてまつらんがための念仏なりとおもうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明六年八月六日書之
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