第二帖 第13通 我宗名望の御文

それ当流にさだむるところのおきてをよくまもるというは、他宗にも世間にも対しては、わが一宗のすがたを、あらわにひとの目にみえぬようにふるまえるをもって本意とするなり。しかるに、ちかごろは、当流念仏者のなかにおいて、わざとひと目にみえて一流のすがたをあらわして、これをもってわが宗の名望のようにおもいて、ことに他宗をこなしおとしめんとおもえり。これ言語道断の次第なり。さらに聖人のさだめましましたる御意に、ふかくあいそむけり。そのゆえは、すでに牛をぬすみたるひととはいわるとも、当流のすがたをみゆべからずとこそおおせられたり。この御ことばをもってよくよくこころうべし。つぎに当流の安心のおもむきをくわしくしらんとおもわんひとは、あながちに智慧才学もいらず、男女貴賎もいらず、ただわが身はつみふかきあさましきものなりとおもいとりて、かかる機までもたすけたまえるほとけは、阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのようもなく、ひとすじに、この阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまいらするおもいをなして、後生をたすけたまえとたのみもうせば、この阿弥陀如来は、ふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおおきなる光明をはなちて、その光明のなかにそのひとをおさめいれておきたまうべし。さればこのこころを『経』(観経)には、まさに「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とはとかれたりとこころうべし。さては、わが身のほとけにならんずることは、なにのわずらいもなし。あら、殊勝の超世の本願や。ありがたの弥陀如来の光明や。この光明の縁にあいたてまつらずは、無始よりこのかたの、無明業障のおそろしき病のなおるということは、さらにもって、あるべからざるものなり。しかるに、この光明の縁にもよおされて、宿善の機ありて、他力の信心ということをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御かたよりさずけましましたる信心とは、やがてあらわにしられたり。かるがゆえに、行者のおこすところの信心にあらず。弥陀如来他力の大信心ということは、いまこそあきらかにしられたり。これによりて、かたじけなくも、ひとたび他力の信心をえたらんひとは、みな弥陀如来の御恩のありがたきほどを、よくよくおもいはかりて、仏恩報謝のためには、つねに称名念仏をもうしたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

    文明六年七月三日書之

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