第一帖 第5通 雪中の御文
そもそも、当年より、ことのほか、加州・能登・越中、両三か国のあいだより、道俗男女、群集をなして、この吉崎の山中に参詣せらるる面々の心中のとおり、いかがとこころもとなくそうろう。そのゆえは、まず当流のおもむきは、このたび極楽に往生すべきことわりは、他力の信心をえたるがゆえなり。しかれども、この一流のうちにおいて、しかしかとその信心のすがたをも、えたるひとこれなし。かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。一大事というはこれなり。さいわいに五里十里の遠路をしのぎ、この雪のうちに参詣のこころざしは、いかようにこころえられたる心中ぞや。千万こころもとなき次第なり。所詮已前はいかようの心中にてありというとも、これよりのちは心中にこころえおかるべき次第を、くわしくもうすべし。よくよく耳をそばだてて聴聞あるべし。そのゆえは、他力の信心ということを、しかと心中にたくわえられ候いて、そのうえには、仏恩報謝のためには、行住座臥に念仏をもうさるべきばかりなり。このこころえにてあるならば、このたびの往生は一定なり。このうれしさのあまりには、師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、こころざしをもいたすべきものなり。これすなわち、当流の義をよくこころえたる、信心のひととはもうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明五年二月八日
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